剣聖「宮本武蔵」はその伝記に不明な点が多くの謎に包まれています。
最大の謎である出生地については、吉川英治著の名作長編小説「宮本武蔵」で描かれている作州説(現岡山県英田郡大原町)、武蔵の養子伊織により加古川市の泊神社に献上された棟札等を根拠とする播州高砂説などがあります。
しかしその中でも様々な根拠と記載、口承伝承から成り立っているのが、播州宮本説です。
 
■石海(せっかい)神社
宮本武蔵が誕生した地・揖保郡太子町宮本村にある石海神社。
氏神は日本書紀を書いた舎人親王。
天保年間(一八三〇〜一八四四)の絵馬も残っている。
創立年月日不詳。
明治三十二年に本堂を再建。
  
●太子町宮本が武蔵誕生の地である根拠は「播磨艦に記載されている。
「播磨艦」は平野康修が宝暦十二年(一七六二)に播磨国の神社・仏閣・名所古跡・人物・物産・風俗・古老の伝承等を記載した地誌です。
起筆より四十三年にして成りたったと言わている労作。
この地誌「播磨艦」に当時、宮本武蔵が「播州損東郡鵤ノ庄宮本村」に生まれたと記載されており、宮本武蔵が「太子町宮本生まれ」の根拠となっています。
「宮本武蔵損東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ、若年ヨリ兵術ヲ好ミ諸国ヲ修行シ、天下ニカクレナク則武蔵流ト云テ諸士ニ門人多シ、然レドモ諸侯ニ任工ズ明石ニ至リ小笠原右近将監督侯ニ趣キ玉フトキ同伴シ、養子伊織二五千石ヲ賜ハリテ大老職ニ仕官ス今ニ棋士孫三千石ニテ家老職ト云・・・」
 
●宮本武蔵産湯井戸
今は涸れて当時の面水は無いが、宮本武蔵はこの井戸で汲まれた水で、生まれて初めて入湯したと伝えられている。
 
●武蔵を知る史料、自筆「五輪書」に自ら「生国播磨の武士・・」と記載をされている。
いつ頃から、どんな理由で、武蔵が宮本姓を名乗ったかは不明ですが、当時は生まれた地名を姓にすることはよくあることであり、播磨の国で宮本の地名はここだけであることからも推論できます。

※この事については、宮本出身の故川嶋右次(明治十二年生。郷士史家の草分け的存在。神戸史談会 初代会長)により、「兵庫県石油村史」(昭和十六年)に詳しく記載されています。
「・・・寛永二十年十月上旬の頃、肥後、の地岩戸山に上り天を拝し観音を礼し、生国播磨に武士、新免武蔵藤原玄信、年つもって六十、我若年の昔より兵法の道に心をかけ、十三歳にして始めて勝負す・・」
 
●宮本武蔵生誕の地碑
村の古老たちの言い伝えを形に・・と、平成四年(一九九二)に建立された「宮本武蔵生誕之地碑」。 小豆島産の自然石を使用。
 
●播州地方で生活していた事実
宮本武蔵は、龍野の脇坂藩・赤穂の浅野藩などに多くの弟子を持ち、円明流の指導をしていたという史実があります。
また、写本ではありますが、江戸時代の講談本で「武蔵と小次郎」の葛藤を題材にしたものが残っており、それには姫路を舞台として描かれています。
さらに、原田夢果史著「真説宮本武蔵」では、「武蔵は大坂冬・夏の陣で大坂方として徳川と戦い、大坂城が落城した後、閑居した地がここ、宮本村ではないか?」と述べられています。
 
●大火災で一切の史料が焼失
残念なことに、宝暦年間の大火災にて村の大半が罹災し、宮本武蔵に関する史料・古文書・系図等の大部分が焼失。
さらに、明治二十年におきた再度の大火災により、総ての史料・古文書等は灰となってしまいました。

※荒神さん境内の無残な傷跡を残した椋樹が、今も皮状態で生き続け、この再度の大火災を物語っています。
 
●ご案内地図
お問い合わせは「太子町観光協会」まで。 TEL.0792ー77ー2566 FAX.0792-77-0068


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